禅語を味わう

はちめんきせいふう

八面起清風

八面起清風

黄檗宗第五十六代安部禅梁管長書

さわやかな涼風が四方八方から吹き抜けるような夏向きの禅語です。
この禅語は『五燈会元続略ごとうえげんぞくりゃく』という禅の語録集に収められている「両頭共坐断、八面起清風」の下の句で、大いなる大安心だいあんじんを得た禅者の自由な境涯をあらわしている句です。
両頭とは、たとえば生と死、善と悪、得と失、愛と憎、勝と負、苦と楽といったように両極に分けられる全てのものを言います。
これらにこだわり、とらわれてその両頭の狭間で一喜一憂し、右往左往しているのが、わたくしたち凡夫ぼんぷの現実の姿です。
全ての悩み・苦しみはこの両頭の狭間から生ずるといってもいいでしょう。
坐断とは文字通り坐禅によって両頭から生ずる迷い・苦しみを断ち切ることです。
達磨大師を始めとした偉大なる祖師方は、ひたすら坐禅に打ち込むことによって、全ての人間がもつ、この両頭の迷妄を断ち切り、心安らかなる大安心の境地に入られたのです。
八面というのは八方と同じ意味ですが、特定の方向を指しているのではなく、いたる処、あらゆる方向からということです。
またここで云う清風とはわたくしたちが一般に考える風ではありません。いわば心に吹く風です。
一切のこだわり、全てのとらわれから抜け出した、禅者の立ち振る舞いや言葉づかいは、どんな時でも、どんな場所でもさわやかな風を呼び起こすが如くにすがすがしいものであったのです。
そして、どんな環境であろうと、どんな逆境にあろうとも縦横無礙・大自在の境地に生きて、まわりの人の心にも新鮮な印象を残したことでしょう。
そのように洒々落々として融通無礙な生涯を過ごされた名僧は、禅宗史上に数多く輩出されてきました。
良寛和尚や一休禅師などはその最も近しい例でしょう。
しかし忘れてはならないのは、その禅的境涯の円熟味です。
お二人とも若い頃から禅僧として人並み以上の禅の修行を積まれ、深く長い坐禅修行の末に、素晴らしい禅の悟りを得られました。
ここでいう両頭の迷いを見事に断ち切られたのです。
たくさんの人間味あふれる奇抜な行動も、すべてそうした素晴らしい禅の境涯に裏打ちされていることを忘れてはいけません。
この禅語はそうした禅的境涯の鮮烈なるすがすがしさをあらわした語と云えます。