禅語を味わう

つきしろくかぜきよし

月白風清

月白風清

黄檗渡来僧獨立性易(一五九六~一六七二)画

仲秋の風景にふさわしい句です。
身も心も洗われるような爽快さをおぼえる方も多いでしょう。
これは、中国宋代第一の詩人とうたわれた文豪・蘇軾そしょく蘇東坡そとうば)の代表作「後赤壁ごせきへき」の中の句です。
澄みきった天空に一輪の月がこうこうと輝き、すすきの穂の間から爽やかな風がゆるやかに吹きわたり、耳をすませば、あちらこちらから秋の虫たちの音色が静かに響き、人々は昼の労働の疲れも忘れて、思わず「ああ!秋だなあ」と思いを深くする。
この句の風趣ふうしゅはとても描き切れませんが、文字面の一通りの意味はそんなところかと思います。
しかし、この句をそのように自然美を賞嘆した、ただの風景描写の句であると、とらえてしまっては、この句を本当に味わったことにはなりません。
禅では、ただぼんやりと月を見たり、風を感じるだけではなく、純真清明なる自分に立ち帰り、自分自信が輝く月、吹き抜ける風になりきってしまえと説きます。
その境地を人境一如にんきょういちにょ自他不二じたふにと言いますが、修行を積まなければそのような心境になれないかというとそうではありません。
人間の心は、本来生まれながらにしてそのような働きをしていますが、ただ、それを自覚することに私達が疎くなっているだけです。
その証拠に、幼児は花や草木・小虫や小動物と自分との間に垣根を作ったりしません。
彼らの世界では「月が笑ったり」「自分が風になってしまう」ことがごく自然にあります。
『 幼子が次第次第に知智つきて仏に遠くなるぞ悲しき』と古歌にあるように、人間は誰もが純真清明な仏心を持って生まれてきました。
しかし、年を経るにしたがって、身につけた知識や経験が、とらわれや、こだわりとなって、心にそうした幾重もの汚れや歪みをつけてしまっているのです。
そうしたとらわれや、こだわりを捨て切った心で月や風を愛でてみてください。
月の光は心いっぱいを満たすように煌々と輝き、風はこの上もなく、優しく、爽やかに心を吹き抜けて行くはずです。
禅者がこの句を愛でてよく揮毫するのは、そうした人境一如・自他不二の境地を尊び、人間本来が持つ純真清明なる仏心を何よりも大切にしているからです。
ただ、天に輝く月と同様、私達の心の月(仏心)も欠けたり、雲がかかって見えなくなってしまうことが多いようです。
しかし、たとえ欠けようと、雲がかかろうと、もともとは完全無欠な真ん丸のお月様であることを忘れてはなりません。
三昧無碍さんまいむげの空ひろく
四智円明もちえんみょうの明さえん』
白隠はくいん禅師は坐禅和讃ざぜんわさんの中で、このように歌っていらっしゃいます。
月を愛でるのによいこの季節、清らかな風で心の曇りを払い、心の月の輝きに気付いて見たいものです。