禅語を味わう

ほんらいむいちもつ

本来無一物

本来無一物

黄檗宗第五十五代加藤慈光管長書

禅の端的を見事に言い当てたこの語は、中国禅宗の第六祖となった慧能禅師の言葉です。
これは慧能が師の第五祖弘忍ぐにん禅師から法を継ぐ契機となった詩偈しいげに由来しており、禅の古典『六祖壇経』には次のようにあります。
当時、 弘忍禅師のもとには七百人余りの弟子達が厳しい修行の日々を送っていました。
ある日、師は後継者を決定するため「悟りの境地を示した詩偈を作れ」と弟子達に命じます。
学徳に 優れ、信望厚く、彼こそが六祖にふさわしいと皆が目していた神秀上座じんしゅうじょうざは次のような詩偈を作りました。
『身はこれ菩提樹、
心は明鏡台の如し、
時々に勤めて払拭して、
塵埃をして惹かしむること莫れ』
この詩偈を見聞きした誰もが賞賛し「六祖は決定した」と噂しあいました。
しかし、ただ一人それに背く者がいました。寺男として米つき部屋で黙々と働いていた慧能えのうです。
慧能は「よくできているが完全ではない。私はこう思う。」と言い、無学文盲で字が書けないため、近くの童子の筆の助けを借りて示したのが次の詩偈です。
『菩提、と樹無し、
明鏡も亦、台に非づ
本来無一物
何れの処にか塵埃をかん』
神秀は身を菩提(悟り)を宿す樹、心を一転の曇りなき鏡にたとえて煩悩の塵や埃を常に払い清めるが如く修行に専念するのが禅の道であると説きました。
しかし、慧能はそうした悟りや煩悩の概念にとらわれた世界をバッサリと否定し、「悟り」「煩悩」ばかりか「一物いちもつも無い」と言う考え方さえない、一切のとらわれを否定し尽した世界こそ禅であると説いたのです。
そして、その「無一物中無尽蔵」の豊かで深みのある禅の世界は、知識や学問があろうと無かろうと万人の下に平等に在ることを慧能は自ら示してみせたのです。
物質文明の生活に浸りきって、知識・分別にとらわれた生き方をしている私たちも「無一物」の世界はすぐ身近に存在します。
全身全霊を打ち込んだ徹底集中、慧能の米つき仕事のように一つの物事に自分の全生命をかけてやり遂げようという心こそは、その世界の扉を開ける尊い力です。
ただ「無一物」の世界があるとかないとか頭で考えるのは愚かな事です。
人が何かにひたすら打ち込む姿がそのまま「無一物」そのものなのです。
自分の中にあるそうした力を信じ、とらわれない心で豊かに生きていきたいものです。