禅語を味わう

きっさこ

喫茶去

喫茶去

黄檗宗第四十九代 山田玉田管長書

「喫茶去」は茶席の禅語の中で最もよく知られた言葉でしょう。
「去」は意味を強める助辞。全体で「お茶をおあがりなさい」といった程度の意味です。
中国唐代の老禅匠、趙州従しんじょうしゅうじゅうしん禅師は「口唇皮上くしんぴじょうに光を放つ」と評される程、日常茶飯の言葉を豊かにかつ絶妙に用いて禅を説いた禅の巨匠です。
その趙州禅師の語録の中に「喫茶去」の話があります。
あるとき、趙州禅師がその日来山した修行僧の内の一人に「かつ此間すかんに到るや(あんたはかつてここに来たことがおありかな)」と尋ね、僧が「「かつて到らず(ありません)」と答えると「喫茶去」とお茶を勧めました。
もう一人の僧に同じことを尋ねると今度は「かつて到る(あります)」と答えましたが、その僧にも禅師は「喫茶去」とお茶を勧めました。
そばにいた院主が「初めて来た者に出す茶はいいとしても、以前来たことがある者にも同じ様にお茶を勧めたのはなぜですか?」と尋ねたところ、禅師は突然「院主さん!」と呼び、思わず「はい」と答えた院主にやはり禅師は「喫茶去」とお茶を勧めたのです。
「趙州喫茶去」という禅の公案にもなっているこの話の真意は禅の修行を長年積んでこそ体得できるものです。
ここで私達が学ぶべきは、どんな者にも「お茶をおあがり」とさらりと言った趙州禅師のさわやかな境地でしょう。
趙州禅師が差し出した一碗の茶の有難さは、私達の日常をふり返ってみた時、しみじみと感じられます。
客人の貴賤・貧富・賢愚・老若職業などにとらわれることなく、さりげなく出された一碗の茶。
たとえ茶道具は粗末で、茶や菓子は十分なものでなくとも、真心込めて出された一碗の茶。
お茶を出すものとして、あるいはいただくものとして、知るべき本当の茶の心が「喫茶去--お茶をおあがり」という短い言葉の中に込められているのです。